スラップスティックな日々

新潟県長岡市を拠点に展開するイノセントワークのハウスクリーニング・お掃除の事。徒然なるままに…。
-別アーカイブ  [ 2013-03- ] 

2013*03*06 Wed
01:05

父 

前回、『愛」って言うタイトルの記事で、昨年末に永眠した父について少し触れました。

今回も父についての続きのような話です。

私が幼少期の頃は恐ろしく厳しい人だったと書きましたが、私が成人する頃には逆に、全く何も言わない人へと変わっていました。

当時の私が非の打ちどころの無いくらいな品行方正名な青年だった訳ではなく。あたかも、あれだけ厳しく躾けたのだから、「もう分かってるだろう。」とでも言っているようでした。




二十代前半、私は著名な建築家やデザイナーに憧れ、東京の建築設計事務所で建築意匠などの仕事に就いていました。

志だけは高く、自分の頭の中のイメージを具現化する事を夢見てその仕事を選択した訳ですが、現実はそんなに甘いものではなく、設計にPCなどが導入される前の話ですから、ひたすら毎日ドラフタ―(製図機)に向かい、電卓を叩いて数字を積み上げて行く様な作業に明け暮れていました。

予算に限りがあり、クライアントの要望などを満たしていくと、自分が表現したいと思う造形とは全くかけ離れたおぞましい建築物を次々に設計していくうちに、次第に情熱が冷めていったのだと思います。

今は違うのかも知れませんが、当時の設計事務所は古い徒弟制度が残っている世界で、朝から23時や午前0時まで働いても、残業代などは一切付かず、当時の高卒初任給程度の賃金で働いていたと記憶しています。

毎晩、酔っ払いや自分と同年代くらいの若いカップルで満たされた酒臭い最終電車の車内に乗っていると、ついさっきまで仕事をしていた自分だけが恐ろしく孤独な異物のように思えてきたりして、絶望的な孤独感を感じたりするものです。

成増の駅で降り、自宅までにコンビニなど無かったので、駅前の立ち食いそば屋で、てんぷらそばか、カツ丼を一日おきにローテーションでかき込み、自宅の布団に倒れ込むように入って寝る、っていった生活を続けてました。

それでも自分の才能を信じてさえ行ければ、そんな生活も耐える事が出来たのでしょうけど、次第に才能にも限界を感じ始めて事務所を退社し、まさに都落ち、故郷長岡へ帰ってくる事になるのです。




私の父は自宅の工場で鉄工所を営んでいました。

私に対してもそうですが、兄弟達にも鉄工所を継げとは言わず、オヤジ一代で終えるつもりでいたようです。

実家へ舞い戻ってきた私は、帰った当初こそ長岡で仕事を探そうとしていましたが、建築設計しかスキルの無かった当時の私は、仕事を探す意欲さえ無くして行く事になります。

決して仕事が無かった訳ではなく、才能が無くて挫折したくせに、「自分は東京で仕事していた」っていう気位だけが高くて、現実を受け入れる事が出来ませんでした。

自宅へ引きこもり、一日中本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたりっていう現実逃避に逃げ込んでいきました。

今で言うニートってやつですね、完全に。

それでいて、時々地元で就職していた友達にたかって酒を飲んだり、夜遊びもするっていう、もう最悪なドラ息子ぶりをいかんなく発揮していました。

私がそんな自堕落な生活をしていても、不思議と父は私に「働け」などとは一切言わないどころか、一緒に夕食を食べている時には「飲むか?」と言って私にグラスを手渡し、ビールをついでくれさえしました。




そんな生活が二か月ほど続いたある日、一つの大きな事件が起きました。

おそらく旋盤の機械だと思います。地具に固定した鉄の棒が削りの負荷に耐えきれずに暴れて、父の腹部の肉をそぎ落とす様な大怪我をしてしまったのです。

出血して倒れた父は救急車で病院へ搬送されました。、「大変な事になった。」と私は感じました。

当然ですが仕事さえしてなかったのですから。

しかし驚いた事に、その日の夕方、松葉杖はついていたと思いますが、父は歩いて帰宅してきたのです。

居間に布団を敷いて二日程は苦しそうに寝ていましたが、三日目には自力で立ち上がり、母に腹部のまだ塞がってもいない傷をさらしできつく締めさせ、自分の工場へ戻って行きました。




私はその光景を見ていて言葉を失いました。

父は私に何ひとつ言いませんでしたが、私がいつか自分で気付く事を信じていてくれていたのだと思います。

言葉ではなく、自分の生きざまを見せる事で、私に男とは、家族を守る事とはっていう事を教えてくれていたのだと思います。




巻頭の写真は父が亡くなった後、母が大切に持っていた、若かりし頃の父の写真です。

初めて見せてもらいました。

「どうです?いい男でしょう?」若い頃は随分女性にもててたみたいです。

当然ですよね。オレのオヤジなのですから。(笑)




父を看取った病室に母と姉と私が居ました。

その日の晩、私は長丁場になるはずの骨の折れる仕事を抱えていましたが、月末で日程を変更する事も出来ず、「今晩、仕事へ行ってくる。」って伝えると、姉が「きっとお父さんなら行ってこい!」って言うはずだから行ってきな、って言ってくれました。

多分その晩、感情的にこみ上げてきて、涙なんかを流しながら仕事をしてたかも知れませんが、そんな事はもう忘れました。(笑)

ただ、オヤジにとって少しは恥ずかしくない息子になれたような気がしました。

オヤジの元に生まれた事の幸福を感じながらこのブログを書いています。

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